障がい*のある方へのインタビューを通じて、多様な身体のあり方や感じ方、人と人との関係性などについて研究している、東京科学大学 未来社会創成研究院 / リベラルアーツ教育研究院 教授の伊藤亜紗さん。2015年に出版され、現在25刷のロングセラーとなっている著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)は、視覚障がいに対する人々のイメージを大きく変えました。

障がいの有無や年齢、性別、国籍など、さまざまな属性の違いを乗り越えて、真に多様性を生かせる組織をつくるためには何が必要なのか、伊藤先生にお話を伺いました。

* 障害とは個人の側にあるものではなく社会の側にある壁であるという考え方から、伊藤亜紗さんの著書では「障害」「障害者」という表記が使われていますが、当記事ではSantenの表記ルールに沿って「障がい」「障がい者」という表記を採用しています。

 
書籍『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を胸の前で持つ伊藤教授の写真

伊藤亜紗(いとう・あさ
東京科学大学 未来社会創成研究院 / リベラルアーツ教育研究院 教授
専門は、美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次に文転。障害を通して、人間の身体のあり方を研究している。
2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野を単位取得のうえ、退学。同年、同大学にて博士号を取得(文学)。学術振興会特別研究員をへて、2013年に東京工業大学リベラルアーツセンター准教授に着任。2016年4月より現職。2020年2月~2024年9月まで、東京工業大学「未来の人類研究センター」初代センター長。

師匠に教わる気持ちで、目の見えない人に話を聞いてきた

― 2015年に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を出版された経緯について教えてください。なぜ、障がいのある方へのインタビューを始めたのでしょうか

私自身はもともと、音楽よりも絵画のほうが親しみやすく、声で言われたことよりも文字で読んだことのほうが記憶しやすいなど、感覚の中で視覚に頼る部分が多いと感じていました。「この視覚がなかったら世界はどんなふうに見えるのか?」と純粋に興味を持って、目の見えない人に話を聞きたいと思ったのが最初のきっかけです。

 

その後、目の見えない人について知れば知るほど、それまで考えたこともなかった問いが次々とわいてきました。そこで、師匠に教えを乞うような気持ちで、Santenに在籍されていたパラリンピックメダリストの葭原滋男さんをはじめ、いろいろな人に話を聞きました。お話があまりにも面白かったので、人に伝えたいと思って自分で「ZINE(小冊子)」をつくって配るようになり、その内容をまとめて出版社に持ち込んだところ出版に至ったという経緯です。

 

 本の中でも触れていますが、私は子どもの頃から生き物が好きで、生物学者を目指していました。自分とは異なる体を持つ生き物からは世界がどのように見えるのか、知りたいという願望があったんです。現在私は美学という、わかっているけれど言葉にしにくいものを言葉で解明しようとする学問を研究しています。その中でも人間の身体を対象に、それぞれ違いのある身体を通して、世界のとらえ方がどのように違うのかを明らかにしようとしています。

美学は哲学系の学問なのですが、歴史的に哲学を担ってきたのは、中流階級以上の白人男性が中心です。だからこれまでの哲学の本には、目の見えない人のことや、私自身が体験してきた出産や育児に関係することはほとんど書かれていません。アジア人女性である私にとっては当然リアリティがなく、哲学の世界で議論されてきたことや本に書かれていることは世界のほんの一部に過ぎなかったのだと気づきました。

 

身体について研究している背景には、「哲学の世界で語られていないことがこんなにあるなら、自分が持ち込もう」という学問的な野心もあります。本の中に書かれていないことを扱うのだから、本を読んで研究するのではなく当事者に話を聞きに行く。インタビューは今後も継続して、ライフワークにしたいと考えています。

当事者から意外な質問「視覚障がい者って、何か共通点とかあるんですか?」

― 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』が出版されて、読者の方からはどのような反応がありましたか?

面白かったのが『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んだ視覚障がい者のリアクションです。「勉強になりました!」という感想が最も多くて、最初は冗談を言われているのかと思いました(笑)。

 

でも実際は、一口に視覚障がい者といっても、弱視か全盲か、先天的な失明か中途失明か、中途失明の中でも何歳ごろ失明したのか、もちろん性格や価値観の違いによっても、ものの感じ方や世界のとらえ方はまったく変わります。だから当事者も私の本を読んではじめて「ほかの人はそうなんだ!」と発見するんですね。

 

「視覚障がい者って、何か共通点とかあったりするんですか?」と、当事者からストレートに聞かれたこともあります。晴眼者の側は、つい視覚障がい者をひとつのカテゴリーとみなしてしまいがちですが、実際は一人ひとりが全く違う。その事実が、著者の私にとっては衝撃的でした。

インタビューに笑顔で答えている、伊藤教授の写真

晴眼者の方が本の感想としてよく言及してくださるのは、四本足のイスと三本足のイスの話です。

 

ほとんどの晴眼者は、見えない状態のことを「視覚情報が欠けている状態」と考えますが、見えない人の世界はもともと視覚情報抜きで成立しています。それはいわば、四本脚のイスと三本脚のイスの違いのようなものです。四本脚のイスから脚を一本取ったら傾いて不完全なイスになってしまいますが、最初から三本脚のイスもある。脚の位置を変えれば、三本脚でも安定するのです。

四本脚のイスと、三本脚で安定しているイスのイラスト「四本脚と三本脚ではバランスの取り方が違う」

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社 2015年 P.30より引用 イラスト:山形育弘

もちろん、社会は見える人を基準につくられているので、点字ブロックの設置などによって、見えない人ができないことを減らすのは大切です。こういった福祉的な取り組みは、まだまだ十分とはいえない面もあるので、今後も社会全体で取り組むべきだと考えています。

 

一方、例えば「目的地にたどり着く」いう結果は同じでも、晴眼者が視覚を頼りにして行くのと、見えない人が周囲の音や点字ブロックなどの触覚を頼りして行くのは、まったく別の経験です。このように、異なるバランスから見た世界のとらえ方、それぞれ異なる経験の面白さについて考えたくて、この本を書きました。

包摂する側・される側という構図を崩してみたら

― 私たちSantenは、視覚障がいのある方との共生社会の実現を目指し、多様な社員が活躍できる環境をつくろうとしています。今後どのようなことに気を付けるべきだと思いますか。

いろいろな人が活躍できる環境をつくるには、むしろマジョリティの側が解体される必要があると思っています。インクルージョンというとどうしても「健常者のかたまりの中に障がい者を包摂する」というイメージで語られがちですが、健常者の側がバラバラになればおのずと、その他の人々も混ざりやすくなります。

 

例えば、全員が席について前を向き、先生の話を聞いているような場があったとします。座る姿勢が保てない人はそこに入りづらく、入っても自分だけ周りと違う姿勢をしていたら居心地が悪いでしょう。でも、最初から椅子に座る、床に座る、立って聞くなど色々な姿勢の人がいたら、誰にとっても入りやすく、居心地の良い場所になると思います。

 

そのような場をつくるには、マネジメント層など決定権のある立場や、会議の進行役などその場のルールを決める立場に、障がい者が入るといいと思います。マネジメント層に視覚障がい者がいて、その人がいつもPCの読み上げ機能を使ってワードの資料をつくってきたら、その会議に参加する人は誰も視覚要素が中心のパワーポイントの資料をつくらなくなると思うんですよ。周囲の人はそこで初めて、パワーポイントは晴眼者のための支援技術であって、視覚障がい者にとっての白杖と同じようなものだと気づきます。

 

異なる身体を持つ人が、一緒に目的を達成するためには工夫が必要で、障がい者と健常者の双方が創造的にならざるを得ません。マジョリティの側が「こっちのやり方を、向こうにもやってもおう」という発想だと状況はあまり変わりませんが、「この場ではこう振る舞わなければならない」という規範を見直し、目的達成のためにさまざまなやり方を選べるようになれば、結果として包摂につながるのではないでしょうか。

― 障がいのある方と一緒に、チームで仕事を進めるにあたり、伊藤さんご自身がリーダーとして心がけていることなどはありますか?

大学の中で私がリーダーを務める部局でも重度の身体障がいのある方を雇用していて、私はいつも彼からすごく刺激を受けています。もちろん仕事は十分にできる優秀な方なのですが、業務のやり方は他の方と違いますし、設備面で配慮が必要な部分もあります。だから、大学側やメンバーには「自分たちが何をする組織なのか」という理念を常に伝え、理解してもらうようにしています。私がいるのは「未来の社会がどうなるべきか」を考える組織なので、異なる身体状況を持つ人の意見が絶対に必要なんです。

 

チームの中で理念を共有し、障がいのあるメンバーに対して必要なサポートはしたうえで、お互いに冗談を言ったり、ツッコミを入れたり、普通の会話ができる関係性づくりを大事にしています。その方の特性にもよるので一概には言えないですが、腫物に触るように気を遣うと、どうしてもお客さん扱いになってしまいがちです。頑張って仲間に入れようとするのではなく、ある意味「雑」に接したほうが、「そこにいていい」と思える雰囲気になるんですね。だから、組織の運営側としての泥臭い仕事もしてもらうし、彼の障がいについてもチームの中で普通に話せるようにしています。

研究室でインタビューに答えている、伊藤教授の写真

― 企業として利益を上げるためには効率も大切なので、マジョリティとマイノリティという構図を崩すことが難しいようにも感じます。この葛藤とどう向き合っていけばいいでしょうか?

難しいですよね。日本に限らず世界的に見ても、障がい者をめぐる現状において「就職」はいまだに高い壁です。障がいのある方を雇用するには、設備面や業務環境の整備などでコストがかかります。だから、その方を雇用することでどのような成果を得られるのか、明確でない状態で企業がリスクを取ることができないのも理解できます。

 

そういった意味では、大学には先例をつくっていく役割があると感じています。大学は実験ができる場所です。障がい者を雇用したことが組織の成長につながったという研究結果を大学から出すことができれば、将来的に企業にも波及していくかもしれませんね。現状はまだ、実験の数が足りていないのだと思います。

ダイバーシティ but インクルージョン。本音だけでは仲間になれない

― 今後一人ひとりの多様性を生かせる組織や社会をつくっていくために、大切なことは何でしょうか。

まず「多様性が大事」という言葉に、いちど立ち止まって考えてみる必要があると思います。お互いの違いを知ることはもちろん大切ですが、いまは多様性を認めるということが、「私とあなたは違う」という線引きになり、お互いに関わらない理由になってしまっているような気がします。でも、本当に大切なのは、多様な人々が仲間になって、一つの組織や社会をつくっていくことですよね。

 

日本ではよく「ダイバーシティ・アンド・インクルージョン」と言われ、「ダイバーシティ(多様性)」と「インクルージョン(包摂)」がセットで語られます。しかしこの2つは本来対立するものです。

 

多様性が高いと組織や社会が分断されてしまうから、包摂とセットで取り組まなければならないのです。言うなれば「ダイバーシティ・バット・インクルージョン」。多様性と包摂は常に緊張関係にあり、バランスを崩さないようハンドルを操作する必要があります。放っておけば安定するわけではなく、メンバーが1人変わればバランスも変化するので、常に意識し続けなければなりません。

 

違いを認め合うことはもちろん大切ですが、それぞれが本音で自分の意見を主張するばかりでは、一つにまとまることはできないでしょう。企業の中にはさまざまな雇用形態の人がいて、組織に対する裁量も異なるので難しい面もあるかもしれませんが、その中でいかに一人ひとりが組織に対する主体性を持つことができるか。共通の理念や目的のもと、それぞれの立場を越えた、ある種の「建前」の中で、自分たちのありたい姿を議論できる場を増やしていくことが必要なのではないでしょうか。

研究室でインタビューに答えている、伊藤教授の写真

取材を終えて

「見える」「見えない」という感覚の違いを通じて、多様性の本質に触れた今回の対話は、私たちに“包摂”のあり方を問い直す機会を与えてくれました。Santenは、誰もがその人らしく関われる社会の実現に向けて、 DE&I(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン )を一過性の取り組みではなく、日々の関係性の中で育むものとしてとらえています。世界中の人々の“Happiness with Vision”のために、私たちはこれからも、見え方の違いを尊重しながら、共に歩む方法を探し続けます。